INICIAR SESIÓN「……白石?」声は、思ったよりも低く掠れた。彼女がいた。何度電話をかけても繋がらず、送ったメッセージも届かなくなった。もう二度と会えないのかもしれないと、何度も思った。その紗奈が、目の前で笑っている。自分の知らない男と、小さな子供に囲まれて。怜司は、しばらく動けなかった。男が子供を抱き直す。紗奈が何か言うと、男は笑って答えた。あまりにも自然なやり取りだった。そこには、長い時間を共に過ごした者同士の気安さがあった。――結婚、したのか。胸の奥が、鈍く痛んだ。考えてみれば、おかしなことではない。彼女が会社を辞めてから、もう2年近く経つ。自分から離れていった彼女が、新しい人生を歩んでいても不思議ではない。それなのに実際にその光景を目の当たりにすると、想像していた以上に堪えた。「社長、どうかされましたか?」秘書の声が遠く聞こえた。怜司は答えなかった。気づけば、足が勝手に動いていた。***「紗奈」突然、名前を呼ばれた。あまりにも聞き慣れた声だった。心臓が、一度だけ大きく跳ねる。そんなはずがない。ここは東京から離れた、私の故郷だ。あの人がいるはずなんて――。「……白石」もう一度呼ばれて、私はゆっくりと振り返った。そこに立っていたのは、東條怜司だった。濃紺のジャケットに、整えられた髪。仕事中より少しだけ柔らかな服装なのに、周囲の賑わいから切り離されたような存在感は、何も変わっていない。「……社長」自分の声が、ひどく頼りなく聞こえた。怜司さんは、私をじっと見つめていた。驚いているようにも、怒っているようにも見える。けれど、その奥にある感情までは読み取れなかった。「久しぶりだな」「……はい。お久しぶりです」喉がからからに乾いていた。どうして、ここに?頭の中で同じ言葉ばかりが繰り返される。「元気にしていたか」「はい。社長も、お変わりなさそうで……」「そう見えるか」短い言葉だった。けれど、なぜか胸が痛んだ。怜司さんの視線が、私の隣へ移る。悠真と、その腕に抱かれた湊。私は反射的に一歩、湊の方へ近づいた。「……そちらは?」怜司さんの声が、わずかに硬くなる。「あ、えっと……」何から説明すればいいのか分からなかった。悠真のこと。湊のこと。そして、目の前の人には決して知られたくない、秘密。
朝晩はすっかり肌寒くなったものの、日中の陽射しにはまだ少しだけ夏の名残がある。窓を開けると、庭先から金木犀の甘い香りが漂ってきた。「まま!」振り返ると、湊が小さな帽子を両手で掲げていた。「はいはい。今日はそれをかぶっていこうね」「ん!」得意げに頷いた湊は、自分で帽子をかぶろうとして、見事に前後を間違えた。「あら、湊くん。前が見えないね」一歳三か月。ついこの間まで寝返りひとつに大騒ぎしていたのに、今では気に入らないことがあると立派に抗議する。子供の成長というのは、本当に容赦がない。こちらが昨日の可愛さを惜しんでいる間に、今日の可愛さで上書きしてしまうのだから。「紗奈ー、来たぞ」玄関から聞き慣れた声がした。「はーい。今行く!」湊がぱっと顔を輝かせる。「ゆー!」「あっ、こら。走らないの」言い終える前に、湊はよちよちと玄関へ向かっていた。まだ危なっかしい足取りなのに、悠真を見つけると急に速くなるのが不思議だ。「お、湊。今日も元気だな」悠真はしゃがみ込むと、飛び込んできた湊を軽々と抱き上げた。「お前、また重くなったんじゃないか?」「ふふっ。最近、食欲がすごいの」「いいことだ。将来は俺よりでかくなるな」そんなくだらないやり取りをしながら、私たちは家を出た。商店街までは歩いて十五分ほど。秋風に揺れる街路樹の下を、悠真が湊を抱き、私は小さな荷物を持って歩いた。何でもない休日。いつもと少し違う場所へ出かけるだけの、穏やかな午後。このときの私は、まだ知らなかった。たった数時間後、止まっていたはずの時間が、再び動き始めることを。***商店街は、想像していた以上の賑わいだった。通りには色とりどりの旗が渡され、焼きそばや焼き菓子の香りが秋の空気に混じっている。小さなステージでは子供向けの音楽が流れ、風船を持った親子連れが行き交っていた。「結構、人がいるね」「毎年こんなもんだよ。ほら、あっちで風船配ってる」悠真が指さした先には、動物の形をした風船を並べたテントがあった。湊もそれに気づいたらしい。「わん!」「あれ、犬に見えるか?」「わん、わん!」「よし。じゃあ、犬をもらいに行こう」「悠真、甘やかしすぎじゃない?」「風船一個で甘やかし判定されるのか。厳しい母親だな」「誰かさんが甘いから、私が厳しくならないと
十月の空は高く澄み渡り、窓から差し込む陽射しも柔らかくなっていた。湊はリビングの床に積み木を広げ、朝から夢中になって遊んでいる。「できた!」湊が得意そうに声を上げた。見ると、積み木が三つ、少し傾きながらも積み上がっている。「すごい、湊! 上手にできたね」私が拍手をすると、湊も嬉しそうに手を叩いた。その拍子に積み木が崩れる。「あーあ!」湊は散らばった積み木をしばらく見つめ、それから何事もなかったように、もう一度積み始めた。私はその隣で、家計簿を開いていた。湊が生まれてから、出費は少しずつ増えている。食費に日用品、季節ごとの洋服。これから先は、もっとお金がかかるだろう。今は実家に住まわせてもらっているおかげで、生活に困ることはない。両親も、湊との暮らしを楽しんでくれている。それでも、いつまでも甘えているわけにはいかなかった。そろそろ、仕事を探さないと。私は家計簿を閉じ、スマートフォンで近所の求人情報を調べ始めた。事務職の募集はいくつか見つかったけれど、勤務時間を見ると、どれも簡単には決められそうにない。働くなら、湊を保育園に預ける必要がある。「……保育園かあ」思わず声に出すと、湊が顔を上げた。「まま?」「ううん。何でもないよ」湊は私の膝に寄りかかり、積み木を一つ差し出した。「これ?」「ん!」受け取って積み上げると、湊は満足そうに笑った。できれば、もう少しこうして一緒に過ごしたい。初めてできることが増えるたび、すぐそばで見ていたかった。でも、湊のこれからを考えれば、少しずつ生活を整えていく必要がある。私は求人サイトを閉じ、今度は近所の保育園を調べてみた。「紗奈、何を見てるの?」洗濯物を畳み終えた母が、隣に座った。「保育園。そろそろ仕事を始めようかなと思って」「あら、そうなの?」「うん。貯金だけで生活していくわけにもいかないし」「お金のことなら、そんなに急がなくてもいいのよ」「ありがとう。でも、ちゃんと自分でも稼ぎたいから」母は私の顔を見て、それから湊に目を向けた。「……本当は、まだ一緒にいたいんでしょう?」「うん。できれば、もう少しね」そう答えると、母は優しく笑った。「じゃあ、焦って決めなくてもいいわ。ゆっくり見学にでも行って、納得できるところを探しましょう」「そうだね」私は画面に表
「まま!」 背後から元気な声が聞こえた。 振り返ると、湊が小さな靴を片方だけ持って立っていた。 「湊、お靴履きたいの?」 「ん!」 「じゃあ、もう片方はどこかな?」 湊は手元の靴を見つめ、それから部屋の中をきょろきょろと見回した。 「あれ? なくなっちゃった?」 「ない!」 「困ったねえ」 私が笑うと、湊も嬉しそうに笑った。 最近の湊は、何でも自分でやりたがる。 靴を履くのも、スプーンを持つのも、私が手伝おうとすると首を振る。 もっとも、靴は左右逆になるし、スプーンで食べるより手で食べた方が早い。 それでも、できることが少しずつ増えていく姿を見るのは楽しかった。 「紗奈、湊の靴ならソファの下にあったわよ」 母がもう片方の靴を持ってきてくれた。 「ありがとう、お母さん」 「はい、湊くん。これでお出かけできるわね」 「ばあば!」 湊は母から靴を受け取ると、私の膝にちょこんと座った。 「ふふ。自分で履くんじゃなかったの?」 「まま」 「はいはい。お手伝いします」 小さな足に靴を履かせる。 ほんの少し前まで、抱っこしていなければどこにも行けなかったのに。 今では自分の足で玄関まで歩いていく。 子どもの成長は、本当に早い。 *** 今日は湊と二人で、商店街まで買い物に行く予定だった。 ベビーカーに乗せようとすると、湊は嫌がって両手を伸ばしてきた。 「歩きたいの?」 「ん!」 「じゃあ、少しだけね」 手をつないで歩き始めると、湊は一歩ごとに足元を確かめるように進んだ。 道端の花。 電柱の影。 風に揺れる木の葉。 大人なら気にも留めないものが、湊にはどれも新鮮らしい。 「まま、あ!」 湊が指さした先には、小さな犬がいた。 「わんわんだね」 「わん!」 「そうそう、わんわん」 飼い主の女性が微笑み、犬も尻尾を振った。 湊は嬉しそうに笑ったけれど、犬が近づいてくると、慌てて私の足にしがみついた。 「怖かった?」 「……わん」 「大丈夫だよ」 しゃがんで抱き上げると、湊は私の肩に頬を寄せた。 商店街に着く頃には、湊はすっかり疲れてベビーカーの中で眠っていた。 「お疲れさま」 小さな寝顔を覗き込み、そっと日よけを下ろす。 すると、鞄の中でスマートフォンが震えた。 悠真からだった。
「紗奈、そろそろ携帯を買い替えたらどうだ?」休日の朝、父が新聞を読みながら言った。「え、どうして?」「昨日も充電が切れたって言ってただろう。もう何年使ってるんだ」「四年くらいかな。最近、急に電源が落ちることがあって」「それなら買い替えた方がいい。湊を連れて出かけたときに使えなくなったら困るだろう」確かに、その通りだった。先日もスーパーで買い物をしている最中に電源が落ち、母からの電話に気づかなかったことがある。「そうだね。今日、見に行ってこようかな」「湊は私たちが見てるから、ゆっくり行ってきなさい」母が台所から顔を出した。「え、いいの?」「もちろん。たまには一人で出かけてきたら?」紗奈は少し迷ったものの、ありがたく甘えることにした。湊が生まれてから、一人で外出する機会はほとんどなかった。久しぶりに身軽な格好で家を出ると、秋の風が頬を撫でた。もう夏も終わりに近づいている。***携帯ショップは、休日ということもあって混雑していた。受付を済ませてから三十分ほど待ち、ようやく名前を呼ばれる。「本日は機種変更ですね」「はい。最近、電池の持ちが悪くて」「かしこまりました。ちなみに、電話番号はそのままお使いになりますか?」店員の何気ない質問に、紗奈は顔を上げた。「……番号って、変えられるんですか?」「はい。新しい番号でご契約いただくこともできますよ。ただし、その場合はご家族やご友人に新しい番号をお知らせいただく必要があります」「そうなんですね」紗奈は膝の上に置いたバッグに目を落とした。電話番号を変える。今まで、そんなことは考えてもいなかった。けれど、その言葉を聞いた瞬間、ある人の顔が浮かんだ。東條怜司。昨夜も、彼からメッセージが届いていた。『白石。来月、少し時間を作れないか。君に会って話したいことがある』その文章を、何度読み返しただろう。会いたいとしっかり言葉にされたのは初めてだった。私にだって伝えたいことはたくさんある。それでも、一度返事をしてしまえば、きっと彼は会いに来る。仕事でも、一度決めたことは必ず実行する。曖昧な態度で引き下がるような人ではない。「お客様?」店員に声をかけられ、紗奈は我に返った。「あ、すみません」「いえ。お電話番号はいかがなさいますか?」紗奈は少し考えてから、口を開いた。
時が流れるのは早い。育児に奮闘しながら必死に過ごしているうちに、湊はあっという間に一歳の誕生日を迎えた。去年の今頃は、まだ腕の中で眠ることしかできなかった小さな命が、今では家具につかまって立ち、得意そうに笑っている。「湊、お誕生日おめでとう!」母が拍手をすると、湊も真似をして小さな手をぱちぱちと叩いた。「まあ、上手!もう一回やってみて」「ばば、ばあば!」「はいはい、ばあばですよ」嬉しそうに孫を抱き上げる母を見て、私は思わず笑顔になった。リビングには色とりどりの風船が飾られ、テーブルには母が作った料理が並んでいた。私が朝から格闘して作った小さな誕生日ケーキも、冷蔵庫で出番を待っている。「お父さん、写真撮ってくれる?」「ああ。湊、こっち向いてみろ」父がスマートフォンを構えると、湊はなぜか反対方向を向いた。「おいおい、じいじはこっちだぞ」「湊、こっち!」私が呼ぶと、今度は満面の笑みで振り返った。「よし、撮れた!」父が得意げに画面を見せてくる。そこには、湊ではなく、必死に息子の気を引こうとしている父の顔が大きく写っていた。「お父さん、これインカメになってる。お父さんしか写ってないよ」「おかしいな」「貸して。私が撮るから」「いや、今度こそ撮れる」そんなやり取りを繰り返していると、玄関のチャイムが鳴った。「はーい」母が出迎えに行くと、聞き慣れた声がした。「こんにちは。これ、湊に」「まあ、悠真くん!ありがとう。上がっていって」高瀬悠真だった。「お邪魔します」悠真は小さな紙袋を手に、リビングに顔を出した。「湊、誕生日おめでとう」「ゆー!」湊は悠真を見つけると、嬉しそうに両手を伸ばした。「お、覚えててくれたか」悠真がしゃがむと、湊は迷わずその腕に飛び込んだ。「ちょっと湊、悠真が来るといつも大喜びなんだから」「俺のこと好きなんだよな?」「きゃっ!」湊が笑い声を上げると、悠真も楽しそうに笑った。悠真は仕事の合間や休日に、ときどき顔を出してくれるようになっていた。買い物を手伝ってくれたり、湊の遊び相手になってくれたり。気がつけば、湊にとってもすっかり馴染みのある存在になっていた。「これ、プレゼント。よかったら使って」紙袋から出てきたのは、木製の積み木だった。「わあ、可愛い!ありがとう」「角が丸く







